幸せとは、発狂とは。

幸せとは、内向的な自立を保つこと。
それがないと心が崩れてしまったり、それの環境が変わってしまうことで不安定になってしまうのは幸せとは言い難い。というのを見た。

心が自立している人は美しいと思う。格好良いとも思うし、いつか自分もそうなりたいと思う。だけれど、大体の人間は何かに依存して生きている。依存先が沢山あれば心が崩れずに華を持って生きてゆける気がする。

私はどうだろう。依存先は無いしのめり込める趣味も無い。だからといって自立しているわけでもない。それでもきっと、自分が自分のことを認められて幸せだと思えれば幸せなんだろうな。私は幸せだ。断言出来る。住む家があって、温かいお風呂に浸かれて、ご飯も食べられる。だけど、どうしてこんなに心が苦しいのだろう。

先日、村田沙耶香さんの「生命式」という本を読んだ。その中に出てきた「いえ、思いません。だって、正常は発狂の一種でしょう?この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います。」という台詞が深く心に刺さった。ハッとした。ずっと、発狂することが出来ない自分が苦しかったからだ。だけれど、この台詞を読んで少し救われた。私は正常という名の発狂をしていたのだ。

酒を飲んでもはっきりとしていた意識も、恋愛に酔えない自分も、ありがたいお言葉や正しいとされる行為に右向け右が出来ない私も、ちゃんと正常という名の発狂をしていたんだ。良かった、狂えていて、本当に良かった。

 

今日は、昼過ぎに起きてゲームをして、携帯を触って寝て、を繰り返す自堕落な生活を送っていた。幸せじゃないか。大丈夫、私は幸せだ。大丈夫、まだ大丈夫。